2015.9.29発行 vol.380
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■INDEX■

発行人の気まぐれコラム 4

◇ next・近代。脱・明治

その7 「マネー」と「ビジネス」の変容

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「私たちの住む列島や私たちの持ち味などをどう活かして、next・近代、脱・明治の社会像を描いていくか」というテーマの4ポイント目です。
いよいよ、「マネー」と「ビジネス」のことですが、今号では、まず前提、これまでの経緯の整理です。

私は、実は経済学者のむすめです。父はもう20年近く前に他界しました。その時父は、京都大学の名誉教授でした。東大系が、政府や大蔵省などの体制側の知恵袋だとすれば、京大系はその逆の立場という構図でした。私のヘソマガリは、そんな父の影響かもしれませんし、考える時の基本については、大変大きな影響を受けています。(ただ近頃は、その東大と京大の構図も変化しているようにも見うけられますが・・・)

私は、父とは全く別のデザインやコミュニケーションの方向に進んだので、全然経済の専門家ではありません。けれども、どうも経済にかかわることについては、これまでのように気軽に書くことに躊躇があります。父の緻密で血の出るような研鑽、研究態度を知ってしまっているからでしょう。

でも、これまでと同じように書こうと思います。経済学には進みませんでしたが、代わりにビジネスの実戦には多少なりとも参加していますから。

[マネーもビジネスも手段でしかない。]

わかり切ったことですよね。でも実際は、どうも目的化しているような気がしてなりません。自分にとってどんな暮らしが、どんな人生が幸せなのか、なんてたいして考えたりしないんじゃないでしょうか。
「お金があれば幸せになれる」「人並みでいたい」「みんなと同じか少しだけリッチになりたい」「広告や雑誌に出てくるような暮らしがしてみたい」と思っている人が多いのではないかと思います。

そして高度成長時代は、そして今でも、多くの人が産業の要請に応えて、ふるさとから都会に出て、必死に働いて、自由な時間もなく、子供にはもっと幸せになってほしいと思って、多くの教育費を払う。塾に通わせ、進学校に進ませ、受験戦争に参戦させ、大企業就職戦線を戦わせる。あるいは、特別な資格や学位を取らせるためにさらに多くの教育投資をする。

まあ、それが幸せだというのであれば、それはそれでいいと思います。高度成長時代に馬車馬のように働いた労働者には、それなりの退職金や年金が用意されていましたから。でも、子供は少しも幸せで伸び伸びしてはいないのではないでしょうか。そして報われることも少ない。
全部の競争に勝ち残っても、すでに時代は高度成長期を過ぎ、もう二度度そういう時代は来ません。グローバルで過酷なビジネス戦争で疲弊する。もちろんどこかで負けてしまった多くの人は、敗者、下層扱い、格差はますます拡大する。それでも、同じことをくり返すしかない。

何だか、お金やビジネスに支配された人生とはいえないでしょうか。決してマネーやビジネスは手段ということではなくなっていると思います。

でも、今はそうするしかない時代であることも事実です。ほとんど誰も幸せでない、穏やかに暮らせない社会が今だという気がしてなりません。
そんな時代で幸せでいられるのは、もともとの大資産家か、ひと山当てることができた山師か、大天才か、変わり者か外れ者。大半の人は不幸ということになります。
そんな社会いいわけないですよね。それを何とかしたい、というのが、このコラムの主旨です。

[マネーとビジネスの変遷。]

マネーは、もちろんモノやコトをスムーズに交換すりためには必要なものです。ビジネスも同様に、モノやコトをそれを必要とする人々にスムーズにゆきわたらせるために必要な機能です。

■「ソーシャル・ビジネス」という白昼夢。

私がまだビジネスに希望をもっていたころ、「ソーシャル・ビジネス」というキーワードが注目されていました。私もそんな「ソーシャル・ビジネス」のひとつに参加し、コミュニケーション・コンセプト企画開発や実制作を行ないました。そのことは、ビジネスという手法を使って、社会の問題を改善していくための試みだったと思います。
そして、その時代は確かに求められていたものだったので、大成功しました。しかしその後、制作物の表現まで含めて、それが儲かるならマネしようといううすっぺらいサービスが多数横行して、あっという間に志もコンセプトもない、似て非なるサービスにおおわれました。

社会の問題点をビジネスの手法を使って改善していこう、なんていう真摯ではあっても、今の時代的には甘いビジネスは、それがマネー的にも報われるものであると社会が知ったとたんに、ほとんどすべて資本の力に打ち負かされて、乗っ取られてしまいます。

私が参加したプロジェクトがスタートしたのは、1996年だったと思います。そのビジネス主体とは、もともと縁があったこともあり、当然コンペなどではなく指名での仕事です。ビジネスプランニングの段階から意見を聞かれ、「それは絶対イケる!」とその代表に言いました。そして、やるのだったらそのシステムの第1号の会員になる、と言いました。そのシステムは、今ではすでに定員いっぱいになっていると思います。

その前後せいぜい10年くらいが、ビジネスに夢がもてる時代だったと思います。その間は、私の仕事人生の中で年齢的にもまさに一番脂が乗っていた時期でした。そのことについても、本当に充実した仕事人生を送れた幸せ者だと感謝しています。

■その後の現実。

しかし、2009年に「きゃりあ・ぷれす」300号の時に書いたように、すでにその頃には経済のグローバル化が進行していて、格差がはっきり表れていました。その後、この傾向はますます深刻化しています。

2009年7月8日「きゃりあ・ぷれす」300号
http://www.pangea.jp/c-press/special/Starting300.html

商売やビジネスをする側からすれば、何らか思い入れやこだわり、あるいは志や誇りをもったようなものは、全て大きな資本力に淘汰される状況です。
もちろん親から継いだお店や事業を、それなりに運営していても、大企業の圧力は容赦なくかかってきて、それまでのようにはいきません。

工業製品は、もともと大きな資本がないと無理なものでしたが、それ以外のあらゆる商品やサービスまでが、大資本の量産、海外生産、労働者の酷使と業務のマニャル化等による「安い」「便利」「ものはそれなり」でしか成立しなくなっているというのが現状ではないでしょうか。

おもしろいもの、個性的なものは高額なものとなり、ごく一部の顧客を相手にするかネット販売くらいでしか成立しません。それも、ほとんど利益を生み出すまでにはいきません。それこそ、利益がない状態で志、思い入れがどれだけ続くかという感じです。

そしてさらに今では、マネーでしか多くのマネーを生み出せないという、全くヘンチクリンな状況になっています。もちろんリスクはありますが。まさに山師や相場師のためのビジネス社会になってしまっているのです。

■そんなマネーやビジネスをどうすればいいか。

個性的で魅力的なモノやコトがないというのはユーザーにとってつまらないことですが、一番私が問題だと思うのは、働く人のほぼ全員が大資本の元に支配され、個人の思いや誇りなど全く無視されているということです。

「資本主義」ってそういうものだヨ。という声が聞こえてきそうです。やっぱりそうだったんですね。
だったら、資本主義は、山師や相場師ではなく、農林漁業やものづくりに生きがいを感じる私たちを幸せにしないことが実証されているのではないでしょうか。

だから労働者は団結して条件闘争、とは私は全く思いません。それでは何も変わらないからです。「労働者」という概念が、すでに働くことは人間が原罪をもっているからその罪滅ばしであって、労苦でしかないという発想の上に立っているからです。

このコラムの「next・近代。脱・明治。その3」で書いたように、この列島に住む私たちにとって、「働くこと」は、決して原罪によって課せられた罰ではありません。働くことは、社会に役立つこと、社会とつながること、そして自らに誇りをもつことなのです。

そいう働き方のできる社会をどうやってつくっていくか。マネーやビジネスをどう手段として活用していったらいいのか、なかなかの難問です。

でも次回は、そのことに挑戦していきたいと思っています。

みなさんのご意見、ご感想などお待ちしております。


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2015年9月295日 『きゃりあ・ぷれす』発行人 宮崎郁子

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