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     働く女性のためのキャリアプランニング情報誌
         「きゃりあ・ぷれす」vol. 117
           2002・9・25(水)発行
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■INDEX■
【特集】「天職を探せ」第4回
    佐久間京子さん(社会的責任投資のための企業アナリスト)・前編

◆自分で人生を作りたいと留学を決意
◆ヨーロッパと現在の夫との出会い、そして日本へ…
◆久しぶりの日本、でも仕事の満足は…
◆結婚、そして運命の地ベルギーへ
◆これが私の求めていたもの
◆働き方のこれから
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          「天職を探せ」第4回
  佐久間京子さん(社会的責任投資のための企業アナリスト)・前編
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大企業の不祥事が後を絶たないニッポン。そんな中、欧米では環境対策や雇
用、社会貢献などに積極的に取り組む企業に投資する「社会的責任投資」
(SRI)が定着し、企業文化が着実に変わっています。SRIは短期的な
業績だけではなく、社内の人材育成や社外への貢献度などの面から企業を総
合的に評価し、一定基準を満たした企業に投資するものですが、その際実際
に企業を調査・評価するベルギーの非営利機関でアナリストとして活躍して
いるのが佐久間さんです。今回は、佐久間さんから今のお仕事にたどり着く
までの長い道のりや、現在計画している「女性ファンド」のことなどを、発
行人の宮崎とコラボレーションスタッフの宮田&木村が聞きました。その半
生は、どんなスポ根もの漫画も真っ青になるような努力と精神力、そしてお
金の流れを変えることでこれまでの経済や社会のあり方を変えたいという壮
大な使命感に彩られています。(木村)

【プロフィール】

佐久間京子さん
1965年鎌倉生まれ。米国ジョージタウン大大学院で公共政策修士を取得
後、ベルギーのEU委員会コンサルタントとして企業の資金調達及び財務構
造比較調査を行う。その後、コーポレート・ガバナンス(企業統治)の分野
で研究所や国際機関等での勤務を経て、2001年1月に企業の社会的責任
に関する調査・評価する非営利組織であるベルギーのエティベル社に入る。
数ヵ月後、エティベル社の専門調査子会社ストックアットステイク社の発足
に伴い、他のアナリストとともに同子会社に移籍し、現在に至る。

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◆自分で人生を作りたいと留学を決意
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──(木村)ベルギーでどのようなキャリアを積んで今のお仕事にたどりつ
いたかというお話は以前に少しうかがいましたが、日本にいた頃は学校も含
めてどんな生活を送っていたんですか。

日本にいたのは高校までで、学校は非常に厳しいカトリック系の一貫校でし
た。(ここで、編集長の宮崎と同じ系列高校だったことが判明して、2人は
ビックリ!)小さいころからある程度恵まれた家庭にいたと思っています。
金銭的ということではく、両親がちゃんといてというか、教育ママではあり
ましたが…。ただ、私の人生って自分が作っていないものだと、ティーンエ
イジャーの頃からずっと思っていたんです。大学の推薦も決まっていたし、
祖母からは「医者か弁護士かとお見合いをして…」といったようなことを小
さい頃から聞かされていたんですが、何となく「私の人生って何なの」とず
っと思っていました。

日本では通っていた教会の周りの方々から、国連や赤十字の活動がいかに素
晴らしいかということを聞いていました。考えてみればこれも留学のきっか
けの一つだったかもしれません。高校留学をしたいと言った時、両親はすご
く反対して「高校まではちゃんと出なさい。けじめをつけないとだめだ」と
言われました。私はそれを受け入れたんですが、高校2、3年の時の大変さ
は今でも覚えています。米国の大学に合格するためにはSAT(学科試験)
やTOEFL(英語試験)で高得点を取らないといけません。学校の成績も
トップ5に入っていないといけないということで、狂ったように勉強しまし
たね。両親は合格するまであまり助けてくれませんでしたので、近所のアメ
リカンスクールの先生に推薦状を書いてもらうといったことを全部自分で開
拓してやりました。

そして、マサチューセッツ州のクラーク大学というところに無事留学しまし
た。でも帰国子女でもないし、急に厳しい米国の大学に入って大変でしたが、
異なる文化や宗教に触れられた。ルームメイトがバングラデシュ人のイスラ
ム教徒だったんですが、部屋に帰ると「何だ、この匂いは」ということで、
いきなり真っ暗な中でろうそくがいっぱい灯してあったり…(笑)でも、お
かげでバングラ料理は得意です!私は生まれてからキリスト教徒なので、仏
教のことをよく知りませんでした。でも、彼女はイスラム教徒なのに仏教に
改宗したいというぐらいすごく詳しかったです。大学時代の友人はヨーロッ
パ人かアジア人で、なぜかアメリカの友人はいませんでしたね。日本人の仲
間がほとんどいなかったことも良かったです。

でも4年生になった時、「それほど名前も知られていない大学を出て、この
後どうするんだ」と思いました。そして、もうこの道でずっと行って修士も
博士も取るしかないと考えたわけです。そこで、今度はワシントンD.Cの
ジョージタウン大学に入り、公共政策を専攻しました。学部の時は国際政治
と国際開発の専攻でしたが。

──高校の頃から、国際政治や国際開発に興味があったんですか?

はい、実はTOEFLの点数を上げるために学校以外で英語を習っていたん
ですが、そこのイギリス人の先生からすごく影響を受けました。先生は自立
するということを常に私に言ってくれて、先生との会話の中で「自分を考え
ることで自分の居る社会を考える」ということを学びました。そうした中で、
きっと日本の社会ってどういうものなんだろうということに興味が行ったん
でしょうね。例えば、日本では川端康成や三島由紀夫をなぜ社会科の時間で
読まないのかなとか考えましたね。

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◆ヨーロッパと現在の夫との出会い、そして日本へ…
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大学院では、また狂ったように勉強しました。友人がヨーロッパ人だったと
いうこともあったせいか、興味の焦点がヨーロッパに向かっていました。そ
こで、サマーコースとしてベルギーのアントワープ大学で欧州連合(EU)
について学び、「やっぱりヨーロッパに行きたい」という気持ちを強くしま
した。実は大学2年生の時、交換留学制度を使ってロンドン大学経済学部
(LSE)に6ヶ月間行きました。その際、欧州議会議員のアシスタントと
なることで単位を取りました。当時私は20歳でしたが、その英国の労働党
議員とは今でも良い関係が続いています。この時、私は議員が書いていたリ
ポート(日本と欧州が貿易摩擦を乗り越えて管理された貿易圏のような形の
パートナーシップをどう構築していくのか−ということをテーマとしている)
のために、日本政府関係者から意見を聞いて反映させるという仕事を与えら
れました。で、そのリポートがこのテーマに関して欧州議会で出されていた
保守系議員からの案の修正案として提出されたんです。

やっていた当時は分からなかったんですが、後々「すごいことをやったんだ
な」と思うと同時に、この結果を誰かに見て欲しいと思いました。そこで、
今にして思うと何故か分からないんですが、EU委員会の東京事務所に結果
を送ったんです。意見を聞きたいと思っただけだったんですが、当時のナン
バー2からは「面白いことが書いてあるから会いに来なさい」と。そして、
当時の対日EU大使が私をEUの研修生として推薦すると言って下さいまし
た。私は絶対ヨーロッパに行きたかったので、このお話を受けてベルギーに
行きました。

──念願かなってヨーロッパに行って、その後どうなさったんですか?

修士論文が中途半端だったので、一度アメリカに帰ろうと思っていました。
でも仕事は面白かったし、それにこれが人生の転機なんでしょうね、そこで、
EU委員会のスタッフでもある今の主人に出会ったんですよ。これで、人生
が180度転換しました。ここから、いかにアメリカに帰らないように契約
を伸ばすか、ということになりました。その頃は、昼間仕事をして夜は論文
を書くという気が狂う生活をしてました。最近腰が痛むんですけど、自分の
人生を振り返ると痛くもなるはずだと思います。もう、むちゃくちゃやって
ましたからね。(笑)週末もなくて、とにかく詰めて詰めて何でもやるんで
すね。でも、全部やりたいからしょうがないんですよ。

それから1年たったんですが、ラッキーなことにEU内でコーポレート・ガ
バナンス(企業統治)に関する私の修士論文のテーマに基づいたプロジェク
トが立ち上がったんですよ。そこで1年契約で採用していただき、日米欧の
現状を比較するテーマの日本部分を担当しました。その後、もっと各企業レ
ベルのコーポレート・ガバナンスがどうなっているのかを調べるプロジェク
トに移り、結局EUには3年いました。

その後、EUが支援するベルギーの研究所で2年間、コーポレート・ガバナ
ンスと日本企業の競争力に関する論文を書いていました。そして、在籍中に
経済協力開発機構(OECD)を退職された方がこの研究所に移ってこられ
ました。ちょうど同じ頃、私は別のルートでOECDが立ち上げるコーポレ
ート・ガバナンスのプロジェクトに契約スタッフとして来ないかというお誘
いを受けていましたので、彼に相談しました。すると、彼はやめろと言うん
です。「君はまだ出来上がっていない。博士号を取ってからにしなさい」と。
そうは言われたんですが、こんな機会は一生に一度なので受けたいと思った
んですね。そこで、まだ当時は結婚していませんでしたが一緒に住んでいた
夫に相談しました。一人にされたらたまらないといったところでしょうが、
そこまで強く反対しなかったので、私はパリに6ヶ月間行くことになりまし
た。その間は、月曜日から金曜日までパリで屋根裏部屋のアパートに寝泊り
しながら仕事をし、金曜日の夜にベルギーに帰って、月曜日の朝一番の列車
でパリに帰るという生活でした。当時はTGV(特急列車)がなかったので、
現在は片道1時間20分で済むところが3時間半の道のりでした。

パリでの生活が終わり、「さあ、次は博士号だ」ということになりました。
ベルギーの大学院は私の論文テーマを面白いと言って受け入れてくれました
が、すべて英語で書こうと思ってもらっては困ると言うんです。ある程度、
フランス語で授業を取って欲しいと言うのです。もう、これは自殺ものでし
た(笑)。でも、これも人生だ!ということで、フランス語に熱中しました。
とはいえ、これまで習っていた科目で理論は分かっていても使われる語彙が
違っていたりで大変でした。4ヶ月後に試験がありましたが、一度は落ちま
した。その4ヶ月後には受かりましたが、丸1年かかりましたね。

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◆久しぶりの日本、でも仕事の満足は…
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1年間、しかもお給料なしの1年間が過ぎて、私ホントに疲れちゃったんで
す。ここで博士号を取ろうというエネルギーがもうなくなってしまって…。
これ以上学生はやっていられないと思っていた矢先に、夫が東京のEU委員
会に転勤することになりました。まだ当時は結婚していなかったし、彼とし
てもすぐに身を固めるのはちょっと難しかったので、彼の人生を尊重し、自
分は自分のやり方で見つけなくてはならないと思いました。そこで、博士課
程を続けつつ、日本での就職先を探し始めました。やはり、一緒に暮らした
ほうがいいし、私は人生この人だと決めていましたので。そして国連大学に
決まり、これまでのテーマに関連したプロジェクトを与えられました。日本
の生活は楽しかったですね。食事もおいしいし。住居も職場に近くて良かっ
たんですけど、何となく足りないんです。この仕事から満足は得られない、
と。

思えば私、最後の数回を除いて自分から仕事を探したことはありませんでし
た。で、ある日、国連大学に外務省の方から電話があって、ウィーンの日本
大使館の専門研究員としてやってみないかというお話を受けました。そこで
彼に相談しましたが、すごくショックを受けてました。よく分かりましたが、
やはり私は自分で自分の仕事をゲットしたかったんです。彼とは無関係で、
自分の力で立っていたいと思いました。だから、やっぱりイエスと言ったほ
うがいいのかなと思ったり。それに、(小声で)給料がすごく良かったんで
すよ。(笑)で、5人の候補者の一人だと言われましたが、(海外生活が長
いので)いわゆる日本人でない私が受かる訳がないということで、バカンス
に出かけちゃったんです。そうしたら、休暇中に両親宛てに電話があって
「3週間後にウィーンに行って欲しい」と。やはり彼はショックを受けてい
ましたが、結婚してずっとここに居るという話は出ていなかったので、それ
なら私は私の人生を行くということで、2年契約でウィーンに行きました。

外務省での仕事は結構大変でしたよ。ただ、何をしてくれと言われたわけで
はありませんでしたが、私はこのままじゃいけないと思いました。例えば、
専門調査員のためのマニュアルを作りました。考えられないことなんですが、
専門調査員が帰るたびに引き継ぎがありませんでした。新しい人が来たら、
1からやり直しです。1からネットワークを作り、オーストリア経済って何
だろうと1から考えなければならなかったんです。だから、私は次の人に引
き継げるマニュアルとオーストリア経済全般に関するリポートを書いたんで
す。上司も評価してくれましたが、私はとにかく自分の満足のためにやらな
いと、この2年間が何だったんだということになるからやりました。私はこ
れまで転籍を繰り返しているので、きっと知らないうちに今やっていること
は必ず客観的に履歴書に書いてアピールできることじゃなければやらないと
いう意識が働いていたんでしょうね。実績を残すということを常に考えてい
たんでしょう。

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◆結婚、そして運命の地ベルギーへ
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──何だか自由研究のような2年間だったんですね。

まあ、そうですね。でも、博士論文の題材にもなりました。とはいえ、こう
いう社会人生活にどっぷり浸かった後、学生生活にはもう戻りたいとは思え
ませんでした。で、当時彼は日本から帰国していました。外務省から契約を
1年延長してくれないかと言われた矢先、彼からプロポーズされました!そ
の時は悩みましたね。お給料も良かったし、3年間やった後に私は国連に行
きたかったので。でも、頑固で一生結婚しないんじゃないかと思った人が変
わったので、さびしかったのかな、などと色々考えた結果、プライベートを
取ることにしました。

ベルギーに戻った後、何から始めてよいか分かりませんが、今後は政策の世
界とビジネスの世界を両方知っていたほうがいいかなと思って、とりあえず
1年間で経営学修士(MBA)を取りました。で、その後EUへのロビー活
動を手がけるコンサルタント会社に就職しました。予算計算など具体的手法
のほか、イギリスの会社だったので英語もたたき込まれて大変勉強になりま
した。評価基準も明確で、昇進も約束されていました。給料もいいし、車も
携帯電話も与えられていたし、安泰でしたね。けっこう有名な会社だったの
で、顧客にも大きな顔ができましたしね。

でも、今になっても主人が言うんですが、当時私は毎日文句を言っていたそ
うです。仕事から満足を得られていなかったんですね。コンサルタントって
いうのは、自分が分かっていなくても「はい、出来ます」と言って、つまり
“調査屋”なんです。出来ないことでも出来ますと言って適当にやってプロ
らしく見せるというのがコンサルタントのやり方なんですね、汚く言ってし
まえば。このカラクリが分かって、自己嫌悪に陥ったんです。給料も高いし、
顧客はあがめてくれるんだけど、全然ハッピーじゃない。主人は本当にかわ
いそう、毎日愚痴を聞いて…。これじゃいけないですよね。

で、やはり社会をより良くする職業に就きたいなと思い始めました。日本で
受けた教育とか、何か関係していたんでしょうね。ちょうどその頃、EUが
労働組合やNGO、政府が一体となっていかに社会を改革するかということ
を協議するフォーラムを立ち上げようとしていました。ヨーロッパ人を対象
に人を募集していましたが、語学ができるならいいと言われてうれしかった
です。でも、フォーラムが立ち上がった後に事務所に出かけると、電話もコ
ンピューターもない。それなのに、3ヶ月ごとの契約更新で、しかも2ヵ月
後に4つの会議を企画してくれと言われました。これは、いくら逆立ちして
もできませんよ。本当にやりたいことでしたが、自分のキャリアに汚点を残
すようであればやめたほうがいいと思い、契約書にサインせずに帰る羽目に
なりました。

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◆これが私の求めていたもの
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その頃、エティベルが日・ベルギー協会を通じて日本人を募集していました。
でも、日本人でこんなことに興味がある人はいないだろうということで、協
会は公表していなかったんですよ。そこに、私が偶然協会を訪ねたんです。
「何かないですかね〜」という感じで。協会の人は「今のところ何もないん
だけど、佐久間さん、こんな変なのが来てるよ。興味ある?」と言って見せ
てくれたんです。もう、「これが私の求めていたもの」ですよ!!すごく幸
せでした。

──念願かなってのエティベルでは、アジア・太平洋地域の企業調査担当と
して採用されたんですよね。

いえいえ、ここからがまた私のキャリア開発なんです。最初は賃金も低い、
単なるアナリストでした。でも、私はもっとキャリアがあるし、メディアと
のやりとりもできるしという訳で、耐えられなかったんですね。それから、
日本企業は私たちが送っている英語で書かれた調査をまともに読まずに捨て
ていました。これではダメ。でも、時価総額の高い日本企業を調査対象から
外しては調査の意味がありません。それならば、日本企業の調査をしながら
彼らの意識変革を促すと同時に、メディアへのPRも私がやろうと考えたん
です。そうしましたら、現在のCEOが認めてくれて、昨年にはお給料を上
げてくれました。やっと、趣味と実益と信念とが重なった仕事ができるよう
になり、やっぱり全力投球しちゃいます。(笑)今、すごく自然に仕事がで
きています。

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◆働き方のこれから
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──(宮崎)ところで、社会変革の要素として大企業が変わっていくのはも
ちろん重要ですが、それだけでしょうか?これからは企業に雇用されない働
き方が広がって行くと思いますが、世界的に見てどうですか。

個人単位になっていくでしょうね。企業の利益と自分の利益が合えば勤める
けれども、合わなければ勤めないという関係になるでしょう。大企業に勤め
られなかったらどうしよう、という考え方はなくなっていくでしょうね。た
だ日本の場合、日本語を使うのは日本人だけで労働流動性が圧倒的に低いの
で、ある程度現状のように行くかもしれません。欧州や米国とは違います、
やはり。私は日本に移民が来て欲しいと思いますが、言葉の面での苦労を考
えるとおすすめできないという気はします。政府が移民に語学教育を無料で
やる覚悟がないのであれば、移民は受け入れるべきではないと思います。

──佐久間さん自身、これまで大組織も経験された後にエティベルに行かれ
たわけですが、これは大組織での限界を感じたということ?

う〜ん、むしろ逆かもしれない。小さいNGOとはいえプロの仕事を求めら
れるんですから、それは大変です。これはここに来てから分かったんですが、
NGOであれ労組であれこれも一つの既得権益なんですね。縄張り争いがす
ごくて、私はよそ者です。これが分かると、NGOだから良くて企業だから
悪いということにはなりません。やっぱり男の人がやる組織はダメなのかし
らね。(笑)信じられないんですが、うちはNGOなのにどこかの大企業と
同じような年功序列型の給与体系をやっていたんです。当然変えてもらいま
した!企業を評価する私たちも変わらなければいけないはずなんです。今は
天職に結びつきましたが、ここまでハッピーになれたのは今年に入ってから
ですよ。

実は私、これから先はパート勤務になります。10月までは週に3日なんで
すが、今は仕事が忙しいので、2日間オフィスに行って3日間は家でやらせ
てもらおうかと思ってます。夫が定年退職したんです。彼は私に家にいて欲
しいタイプなんで、一緒に過ごす時間を少しでも多く持つためです。私は何
というか古典的な男性が好きで…。家の中をうろうろして家事をやってくれ
る男性よりは、基本的にはドンと座っていてもらってたまにジェントルマン
な対応をしてくれるだけでいいんです。(笑)でも、彼は少し家事はやって
ますよ。もちろん、アイロンもかけて料理もしてくれる男性が好きという方
もいるでしょうが、これは完全に趣味の問題でしょうね。私、また転機にあ
るのかもしれませんね。

──(宮田)そういえば、これまでの仕事が変わる節目節目で旦那様の存在
が浮かんできましたね。

そうかもしれません。でも、私それでいいんです。それは、私がこの人と会
うべくして会ったと思っているからでしょうね。これはとても幸せなことで
す。私たちってぜ〜んぜん夫婦らしくなくて、ティーンエイジャーの恋の延
長みたいです。でも、彼がいなかったら、私とてもつまらない人間になって
いたでしょうね。人間的にすごく高めてもらいました。
                           <次号に続く>
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