きゃりあ・ぷれす

天職を探せ
様々に悩み、考え、挑戦して、
今『天職』と言えるものを見つけてがんばっている人、
見つけつつある人と発行人宮崎との対談。
天職を見つけた結果よりもそこに至る思考の変遷や
キャリアの蓄積などの経緯にスポットを当てています。
それが、今、様々に悩んだり迷ったりしている方に
少しでも役立てば幸いです。
森雅浩さん
ファッションビジネス業界から環境教育へ「Be-Nature School」プロデューサー

1980年代のはじめ、デザイナーズブランドの最盛期にファッション業界の最先端にいた「彼」は、今、環境教育のプログラムを提供する活動を続けている。
テーマは「Be Nature」。
人も街も社会も自然の一部。
だからこそ、根底にある自然を知り、地球を知り、自分を知ろう。
そんなコンセプトを持つ「彼」の提供するプログラムは、通常の環境教育プログラムとは少し違った、ユニークで幅の広い視点を持って運営されている。

消費の最前線からスピリチュアルでエコロジカルでサスティナブルな(持続可能な)世界への転身。その軌跡のなかに私たちの学ぶべきいろいろなヒントが隠されてているのではないか。

そんなヒントを発見すべく、今回の「天職を探せ」には、Be- Nature School の森雅浩さんにご登場いただいた。

※最後にBe-Nature Schoolのプログラムのご案内を致します。
「27~35歳の働く女性、都会に住んでいて仕事もそこそこ覚えてきたけど、後から入ってきた男性社員が昇進していく。そんな中で、親からは結婚を急かせれて自分の人生をこれからどう送っていこうかと迷っている女性、というものです。
そういった女性が自然との触れあいの中で、自分の人生を再発見していくというイメージがありました。」と語る森さんのつくりだすプログラムは、読者の皆様にとっても興味深いものではないかと思います。

※「身体感覚講座」でおなじみの松田恵美子さんをはじめ、「Be Nature School」の講師陣がコラボレイトした本が出版されました。岩波アクティブ新書「おとなの自然塾」と講談社「自分という自然に出会う」の2冊です。

森雅浩さん
サラリーマン時代はカヌー遊びやキャンプなどアウトドアに興じるが、出会いを通じてアイサーチ・ジャパン(国際イルカ・クジラ教育リサーチセンター)の設立にかかわる。1994年に日本で開催された第4回国際イルカ・クジラ会議の準備・運営に専念する為、退職。中心スタッフとして活動する。
会議終了後は人と自然と街のつながりをテーマにワークショップやトークイベント、親子の自然体験プログラム等をプロデュースする。 現在、「Be-Nature School」及び運営母体の有限会社ビーネイチャー代表。

◆「Be-Nature School」とは?
宮崎 「Be-Nature School」ではどのような活動を行なわれているのでしょうか?活動主旨などもお聞かせいただければと思います。

 難しい言葉で言うと「自然体験型環境教育」ということになります。自然学校なんて言い方もありますが、あまりジャンルにはこだわっていません。
自分自身の存在を思うとき、その根底にあるものは“自然”です。どんな都市に住んでいても、地球に張り付きながら生きているということには変わりはありません。私たちはもっと自然の仕組みを知っておいてもいいのではないか。ワークショップやプログラムを通じて“自然とのつながり”を体験し、そこで自分なりに感じたものをそのあとの日常生活に活かしてもらいたい。それから、参加者同士や講師との出会いも大切な要素です。そういった「学びの場」を提供するのが我々の仕事であると思っています。

宮崎 「Be-Nature School」というネーミングになったいきさつをお聞かせください。

 “Do Nature”(自然の中で活動する)ではなくて、自分自身が自然である、自然と共にあるという意味合いで“Be-Nature”としました。それは
「自分勝手」や「わがまま」とは違うと思うんです。人はひとりでは生きていけないし、もちろんきれいな空気や水があるから生きていける。ひとりひとりが“Be-Nature”であれば、社会全体が“Be-Nature”になるという願いが込められています。

宮崎 参加者の男女比はどうなっているでしょうか。

 Be-Nature Schoolでは通常、女性が7割ぐらいですが、だいたいどの分野でも女性が多いですね。他のスクールに聞いてもロッククライミングやラフティングやシャワークライミングみたいなアクティブなものでも半分が女性だそうです。

Be-Nature School設立当初、想定していた参加者のイメージがあってそれは、27~35歳の働く女性、都会に住んでいて仕事もそこそこ覚えてきたけど、後から入ってきた男性社員が昇進していく。そんな中で、親からは結婚を急かされて自分の人生をこれからどう送っていこうかと迷っている女性、というものです。
そういった女性が自然との触れあいの中で、自分の人生を再発見していくというイメージがありました。実際に狙っていたわけではありませんが、スクール参加を通じて、転職したり、フリーになったりと、仕事を変えた人は結構います。最近は結婚したとか、子どもが出来たといった報告も多いですが(笑)今はもっと幅広い層が対象になっていると思います。

◆「Be-Nature School」をはじめることになるきっかけ ~ファッションビジネスから環境教育への転職体験~
宮崎 「Be-Nature School」を始める前はほかの仕事をなさっていたということですが、そのあたりのことを聞かせてください。

 以前はデザイナーズブランドの販売会社本部で店舗開発や顧客管理、ノベルティ開発など洋服以外はなんでもやってました。販売員の採用も担当していたので、1日に20~30人くらいの面接をしていたこともあります。
もともと商業スペースを作ったり運営することに興味があったんですが、就職することにはあまり興味がありませんでした。大学の卒業旅行でニューヨークに行ったんですが、旅費を生協が2年間の返済計画で貸してくれたので、その分を返すために就職しよう、返したら辞めようぐらいの気持ちで働きはじめたんです。結局10年間働くことになりましたが。

働き始めて2年目には鹿児島に転勤になって、ファッションビルを任されました。24歳で部下が20人いて5店鋪のマネージャーになりました。2年で辞めるつもりが次から次へと新規事業に回されて、結構おもしろかったので真面目に働いているうちに10年が過ぎていたんです。

宮崎 森さんの意識が自然へと向いていくきっかけみたいなものは何だったんでしょうか。

 20代後半から会社の同僚や先輩とアウトドアをするようになって、夏休みに一人でジャングル行ったりして、自然の中に身を置くことが好きになって来ました。それが、今につながるようになったのはICERC Japan(アイサーチ・ジャパン:国際イルカ・クジラ教育リサーチセンター)というNGOで1年間ボランティアをしたのがきっかけですね。その団体の本部はオーストラリアあったんですが、1991年に日本支部つくることになり、そことたまたま縁があって参画しました。

宮崎 子供のころはどうだったのでしょうか。自然に対する原体験はあったのでしょうか。

 小学生のころは公害問題がひどくて、水俣病やイタイイタイ病がちょうどニュースで流れてて、このままいくと自分が大人になる頃には地球が終わってしまうと思ってました。その頃住んでいた場所は東京の郊外ですが、トトロの森みたいな場所がたくさんあったんです。それが開発でどんどん住宅地になっていくのを見ながら育ったので、環境に対する思いはその頃からあったように思います。
あと、近くにわき水の湧く場所があって、そういうのを見るのが好きな子供でした。土手を自転車で走ったり、そういうことが当たり前の少年時代を過ごしました。

北海道のきれいな草原をテレビで見てどうしても行きたくなって、親に連れていってと頼んだら、「大人になってから自分で行きなさい」と言われて「大人になったらなくなっちゃうよ!」と本気で言ったことをよく覚えています。

宮崎 では先ほどの「アイサーチ(国際イルカ・クジラ教育リサーチセンター)」との出会いがきっかけで子供のころの原体験がよみがえったということでしょうか。その辺りのことをお聞かせください。

 91年に渋谷パルコのパート2のショップ改装の時に、お店の真ん中に雑貨コーナーを設けようと提案したんです。それで雑貨の仕入れを担当して、いろいろ探すうちにクリスタルを扱っている会社に出会いました。そこの会社の代表・岩谷孝子さんがオーストラリアの「国際イルカ・クジラ会議」に参加していて、周りにはたくさんのイルカ・クジラな人がいたんです。時々遊びにいってはいろいろ面白い話を聞かせてもらいました。
その頃は日本でのイルカブームのちょっと前で、イルカに興味をもった人が外国に問い合わせると、「日本でイルカのことはタカコ(岩谷さん)っていう人がいるから連絡してみろ」と言われる感じだったんで、情報が集まったんですね。

92年にハワイでイルカ・クジラ会議が開催されることが決まっていて、日本から何人かで行こうという話になって、91年の11月くらいから準備を手伝い始めました。実際に関わったのはそこからですね。それでテレビ局の企画で「イルカ・クジラと共存する未来づくり」みたいな うたい文句でメディアと絡んで15人くらいで行くことになったんです。
それで、そのハワイの会議に出席することを上司に相談しました。働いていて休みも取れないことは分かっていたので、これは会社辞めなきゃ、ハワイには行けないだろうなと思っていたら、上司は意外にも「それはいいことだ」みたいなことを言ってくれてすんなり行けることになりました。

92年の次のイルカ・クジラ会議が94年で、今度は日本で開催ということになって、これはいよいよ大変なことになってきたと感じました。また、それと時期を同じくしてだんだんと仕事への情熱がなくなってきていました。こちらのネットワークの方が新鮮で面白いわけです。自分はこっちの世界で真剣にやってみたいと思いました。それで、93年に会社を辞めました。

宮崎 辞めるときにはどういう気持ちでしたか。

 流れの中でだんだんとこっちの方に来たということもありますが、「このままでは社会の中で行き詰まるな」という思いがありました。その頃はもう自分がさほど愛着を持ってないものを人にすすめることにどうしても抵抗があったわけです。また、そんな自分が会社にいることによって、周りにも悪い影響を与えるのではないかとも思いました。それでも辞めるまでは悩みました。生活できるかどうかも不安でしたし。92年の10月に結婚したんですが、そのときはもう辞めようと心に決めてました。

宮崎 結婚したというのに辞めようと思ったんですか。

 逆に妻の後押しがあったんです。お尻を蹴られたって感じです。それがなかったら、辞める時期はもう少し後になったでしょうね。ずっと続けることはしなかったでしょうけど。それと、「どうにかなる」とどこかで信じていたところがあります。

宮崎 そのあとはどうやって生計を立てたんですか。

 会社を辞めてから、アイサーチの活動をしてもそこから収入があるとは思っていませんでした。退職金とか失業保険で1年ぐらい何とかなると思っていました。そのうち仕事も生まれるだろうなんてね(笑)。それでも会社を辞めてからもいろいろ悩みましたよ。「これは本当にやりたいことなのか」とも考えたりしました。

宮崎 一番辛かったことは何だったのでしょう。

 94年に日本でイルカ・クジラ会議があって、それが終わってから半年くらいは本当に辛かったですね。目標にしていた会議は終わっちゃって熱が覚めていく状況の中、失業保険も切れるし、仕事はないし、正直ヒモみたいなもんです。いや~、奥さんには感謝してます。

◆「Be-Nature School」設立
宮崎 そのあと「Be-Nature School」を設立するまでの経過はどうだったんでしょう。

 94年のイルカクジラ会議の後に、ダイビングのインストラクター2人が訪ねてきたのがきっかけです。アイサーチの頃から小笠原にイルカやクジラに会いにいくツアーもボランティアでやっていましたが、イルカに会えない場合、ものすごくがっかりする人がいっぱいいるんです。周りにはいい森や海があるのに、がっかりして帰るのはおかしいと思っていたんです。そんな思いと海だけじゃなくてもっと広く自然を伝えたいという彼らの思いが重なって、貴重な自然からのメッセージを単発ではなくて継続的なプログラムでもっとしっかり伝えようというコンセプトが生まれました。

それで、海だけでなく、森、山、都市の自然や心とか身体の専門家で賛同しくれる仲間を集めていって「ベーシック・コース」というものを1年半かけて準備しました。

そうこうしているうちに、Be-Nature Schoolの運営母体になっていた岩谷さんの会社を引き継ぐことになって、98年の4月に有限会社ビーネイチャーと社名を変更し正式に代表になりました。

宮崎 事業内容はどういったことを行なっているのですか。またそこから収益は出ているのでしょうか。

 正直なところは主催のスクール事業だけではやっていけません。ビーパルのアウトドアイベントを企画運営したり、“チーム・ビルディング”や“リーダーシップ”をテーマにした野外での企業研修も実施しています。ワークショップやプログラムづくりについてのコンサルタントもやっています。この前は「公民館における事業企画」という講習の依頼もありました。そういった企画を発展させていくこともビーネイチャーの今後の運営に必要だと思っています。

宮崎 今、楽しいですか?

 もちろん楽しいですが、でもそう単純ではないですね。会社を辞めたときはネイチャー系のイベント屋でもやればいいやと思っていたくらいなので、ある意味思い通りになっているというのはあります。人との出会いの中で勉強して、単なるイベントというよりも環境教育というか、学びの場を提供していく意識でやっていますが、自分が勉強していく中でこうなったという印象です。
「ベーシック・コース」を始めた頃は今にくらべると素人同然でした。ですから大変だったけど、何でも新鮮で楽しかった。ただ。3年くらい前から「運営してるけど、経営してないなあ」という問題意識も感じるようになりました。今は少ないながらスタッフも抱え、今までより組織としての経営を強く意識するようになりましたね。ですから、以前に比べるとひとつひとつのプログラムに集中するよりは、もっと全体を見るようになってきたように思います。

でもそういうときに、講座に参加する人が回を重ねて参加する度にだんだんといきいきしてくるのを目の当たりにすると、こちらが逆に元気を分けてもらったりして、こういう喜びが原点なんだと強く認識しています。

宮崎 以前のファッション業界と今の生活を比べて、どっちが良かったと思われますか。

 どっちが良かったとは思わないです。なるべくしてこうなった、今の自分がベストだとは思ってます。でも、もし以前の会社を辞めてなかったらと思えば、それはそれでどんな人生を送っていたか、ちょっとやってみたいような気もしますけど(笑)。

◆現状の課題や将来の夢について
宮崎 今の仕事で考え方が変わったことなどありますか。

 最近、人に企画のやり方を教えるようになって気が付いたんですけど、企画力ってアイデアが豊富な人と着地させるのがうまい人がいて、最近特に自分は着地させることばかり考えてるなぁと自覚するようになりました。こういう仕事でちゃんと稼ごうと思うと、どう着地させるかということを押さえておかないと仕事にならないんです。
「アイデア力」と「着地力」の両方があればそれが一番いいのでしょうけど、多分年齢に応じても変化があるんだろうなと思っています。

宮崎 将来の夢を教えてください。

 先日、自分自身の「未来予想図」を絵に描くという主旨のワークショップをやって、自分も参加したんですが、そこで出たキーワードが私の場合、「引退」でした(笑)。引退して海の見える家に住んで、時々サーフィンとかして暮らすということみたいです。

それで自分自身、やりたいことはもう何もないのかと思ってよくよく考えてみると実はけっこうあって、もしできるなら、「伊豆七島自然学校ネットワーク」というのを作ってみたい思っています。
各島にひとつに自然学校を作って、ネットワークでフィールドやプログラム開発すれば面白いことになると思うんです。それから、真面目にカフェやりたいです。都心にBe-NATURE organic Cafeがあって、ナチュラルな食事だけでなくメッセージも発信する。さらに海辺に拠点を持って、海のプログラムに加え、畑とか森作りもやっちゃう。といったかんじです。これは夢っていうより事業プランでしょうか。是非やりた いです。

いろいろと夢が自分の中から出てきて、まだまだやりたいことはあるなあと気付きました。(了)