きゃりあ・ぷれす

天職を探せ
様々に悩み、考え、挑戦して、
今『天職』と言えるものを見つけてがんばっている人、
見つけつつある人と発行人宮崎との対談。
天職を見つけた結果よりもそこに至る思考の変遷や
キャリアの蓄積などの経緯にスポットを当てています。
それが、今、様々に悩んだり迷ったりしている方に
少しでも役立てば幸いです。
矢澤光一さん
コンサルタントから「植木屋」へ
“好き”からはじめる天職

『「好き」を仕事に』とはよく言うけれど、そんなに簡単じゃない。ましてや自分の仕事を「天職」といえる人は、きっとすごく少ないと思う。

でも、矢澤さんは「これで食っていければ、天職!」と笑う。その言葉に力みはなく、極めて自然体。周りからも認められた優秀なコンサルタントから「植木屋」に転身して3年。経済的にはまだまだ不安定だが、「今の気分は最高」という。

安定した職場環境にありながら、仕事のことで悩んでいる人は多い。「天職」をみつけて、「最高の気分」で働く矢澤さんと「悩み多き私たち」とは一体、何が違うのか?

そのへんのところを探りたくて、今回のインタビューは始まった。
矢澤光一さん
1961年、東京都生れ。
宇都宮大学農学部林学科卒
大学卒業後、環境系の大手コンサルト入社。
24歳のとき、(株)愛植物設計事務所に入社。コンサルタントとして活躍。
40歳で矢澤ナーセリーを設立。植物の生産を始める。

◆少年~学生時代 いつも周りに緑があった
宮田 子供の頃から、植物が好きだったんですか?

矢澤 私は亀有の生れで、父の実家が足立区にあったんですけど、その頃の足立区は土地区画整理が始まったところで、まだまだ緑や動植物と触れあう環境が残っていました。
子供の頃は虫採りや魚獲りをして遊んだけど、今思えば当時から、木の葉っぱとか花とかを見て、「この名前を知りたいな」という欲求はあったように思います。

宮田 それで農学部へ進まれたんですか。

矢澤 どっちかというと理系だったんですけど、機械とか電気は苦手でして。東京の環境がどんどん悪くなっていくなかを、小・中・高と過ごして、環境問題に興味を持ち始めたんです。当時、大気汚染などが社会問題になっていました。
それで、読んでいた自然保護に関する本の著者の多くが林学科の先生で、そのひとりが宇都宮大学の先生だったこともあって、宇都宮大の林学科に進学しました。

宮田 大学時代はどんな風に過ごされたんですか。

矢澤 林学科は実習が多くて、山へ入ることが多かったんですね。地方の山持ちなんかが同級生にいて、ユリネとかアケビを採って食べたり、山の暮らしの楽しみ方を教わって、「いいもんだな…」なんて思っていました。卒論で街路樹のことを取り上げて、都市緑化のことを意識しはじめたのはそのときからです。

◆コンサルタント時代 技術士の資格を二つも持った優秀なコンサルタント
宮田 都市緑化に興味を持って、それでコンサルタントになられたわけですね。

矢澤 はじめは環境調査・公園・土木の大手コンサルタントに入社したんです。国や自治体からの調査を受託するわけですが、なにしろ大手ですから(笑)、実際の調査は外注がほとんどなわけです。

会社は取りまとめ役とクライアントとの窓口で、外注先から上がってきた資料を報告書としてまとめるのが主な仕事で、私は報告書の版下づくりをやらされていました。
植物のことをやりたくて入ったわけですが、何故かスクリーントーンの貼り方やロットリングだけが上手くなったりして。

もっとフィールドに出たかった。それで、24歳のとき環境計画や調査、造園計画などを手がける(株)愛植物設計事務所に入社しました。

宮田 そこでは思うような仕事ができましたか?

矢澤 ハイ。そこでは必ず現場に行きました。山本社長からは現場の観方を随分教わりました。調査を5年、計画を10年やりました。30歳前後から計画の仕事が分かりはじめて面白くなったんです。

依頼先は役所が多かったんですが、役所から投げかけられた課題の最適解をどう出すか、それが面白かった。仕事は多かったですけど、計画論や造園の専門書なども読んで、どんどん知識を吸収した時期でした。

宮田 それで、技術士の資格を二つも取ったんですよね。技術士の国家資格を取るのはとても難しいと聞いています。

矢澤 公共からの仕事を取るとき必要なものなので…。34歳のとき、建設部門の資格を、37歳の時、環境部門の資格を取りました。

宮田 そんな優秀なコンサルタントの矢澤さんが、なぜコンサルタントをやめようと?

矢澤 コンサルタントに限界を感じたからです。ちょうど35歳の頃から、外部の優れたランドスケープの設計者や事業計画の方と一緒にプランを作るようになって、「これが実現すればすごいな!」と思えるような企画を提案する機会に恵まれたんです。

宮田 これまでは「役所からの課題の最適解」を出すことが仕事だったのが、それを超える新しいプランを提案していったわけですね。

矢澤 ところが、これがことごとく破たんするわけです。プランが良ければ良いほど実現しない。

宮田 わかります。相手の組織が大きければ大きいほど、新しい提案は通りにくいですよね。お役所ならなおさらそうだと思います。

公共の構造というか、仕組みとして新しいことをするのは難しいと感じました。他人に「こうやったらいいですよ」なんて言ってるより、「自分でやっちゃえ!」と思ったわけです。

40歳目前にして、人生折り返し点、残りの人生は本当にやりたいことをやりたい、と思うようになりました。

◆「天職」への道1・きっかけ 植木の生産者に出会って、おしかけ修行
宮田 それで、なんで「植木屋さん」なんですか?

矢澤 35歳のとき、植木の生産地として有名な埼玉県の安行の区画整理事業で公園をつくる仕事がありまして。
植木の里の原風景を公園にとりこみたいと思い、愛植の山本社長に、安行で植木の生産・卸をされている柴道昭氏を紹介してもらったんです。

柴道さんは、植木の輸出入も早くからされていて、国内の植木のことだけでなく海外の植木生産のことにも知識が豊富で、とにかく造詣が深く「この人にもつと教わりたい!」って思ったんです。それで、おしかけ弟子のように土曜日ごとに通うようになったんです。

宮田 はじめから独立するつもりで通い始めたのではないんですね。何年通われたんですか?

矢澤 はじめは植物をもっと覚えたいと思ったのが大きな動機で、5年通いました。

宮田 会社に勤めながら5年も通ったんですか?!

矢澤 バブルの頃、多くの植木生産者は自分で木を育てるのをやめてしまって、注文を受けたらそれに合う木を見つけて流し、マージンを得る、ブローカーのような存在になってしまっていたんです。バブルがはじけて潰れたところもたくさんあって、そこで昔から継承されてきた貴重な技術が、随分失われてしまったと思うんです。
でも、柴道さんは昔ながらの方法で植木をつくり続けた。そのなかに接ぎ木の技術があったんです。それがすごく面白かったんです。

宮田 で、とうとう会社を辞めたわけですか。

矢澤 コンサルタントの仕事も忙しくて、休みもとれなくて、ストレスもたまり、「思う存分、接ぎ木をやらせてくれ!」(笑)って。

宮田 それって面白いですね。「思う存分遊びたい」とか、「思う存分コレ食べたい」とかなら分かりますけど。「接ぎ木」って…。接ぎ木のどこがそんなに魅力だったんですか?

矢澤 それは、手をかけて新しい植物を自分で生み出すことの喜びでしょうか。自分が接いだ植物にはすごく愛着を感じます。

自然の中には何かの拍子で一重のはずなのに八重の花が咲いたり、変わった色の花が咲いたり、枝垂れたり、葉に斑が入ったりするものが生まれてくることがあるんです。
でも、その種子をとって育てても、先祖返りしてしまって元の変化のあった姿にならない。そういうものは無性繁殖の接ぎ木か挿し木で増やすしかないわけです。

◆「天職」への道2・転身 「まず歩き始め、歩きながら考える」が矢澤流
宮田 いよいよ今回のインタビューの核心に入るのですが、コンサルタントとして認められていた矢澤さんが、なぜ一から「植木屋」をはじめることに踏み切れたんですか?

矢澤 40歳だし、21世紀になったし。良い区切りだと思って(笑)。土曜日ごとに安行へ行って、汗をかいて生き物の世話をするのって精神的 にすごくいいなあと思って。好きなコトで仕事をやれるようになったらすばらしいなあと思ったんです。
植木生産の技術(接ぎ木)を継承する人が少なくなっているので、少しでもそれを受け継ぐことができたらとも思いました。40歳になったとき、もう迷いはありませんでした。

宮田 でも、お金のことは心配ではなかったんですか。

矢澤 一歩踏み出そうとしたとき、色々心配なことが頭に浮かびますよね。動き出さないで色々考えてもキリがない。全ての問題をあらかじめ解決するのは無理なんですから。

歩き始めると、前に心配していたことが何でもなかったり、歩き始めることで見えてくる問題もある。それは歩いてみないと分からないんです。だから、歩きながらぶつかった問題を解決していけばいいやって、思ったんです。

宮田 まず、歩き出せってことですね。

矢澤 「本当に好きだなあ」って思えるコトが見つかることが幸せで、あとは動いた方が勝ち。

「前向きに考えて行動していれば、何とかなるだろう」と私は思っています。実際こうして始めてみると、思わぬところで周りが助けてくれます。植木の生産を始めた頃は接ぎ木委託の注文がくるなんて思ってなかったのに、「委託を受けます」って言ったら、なんと本場の安行から注文がきました。驚いたけど、これなんかも歩いているうちに見つけた成果のひとつだなあと思います。

宮田 矢澤さんを見ていると、全然焦っていないように見えますが。

矢澤 金銭的には苦しいですよ。でも焦ってないのは、樹木を生み出して苗木に育てて世に送り出すという息の長い仕事なので、最初から黒字になるとは思ってなくて、3~5年はかかると考えているからです。

私は仕事をするとき「フローとストック」ということを強く意識するんです。常に新しい情報を追いかけて、時間が経つとその内容はどんどん陳腐化していく。そういうことに仕事の時間の大半を費やすのは耐えられません。

身についた技術で食べていけるようになれば、技術はストックになる。そして、経験を積み重ねていけばいくほど技術は成熟していく。植物は時間がたって育てば育つほど豊かになるわけだから、それはストックになると思うんです。

宮田 今の気分は?

矢澤 「最高ですね」朝、目が覚めると早く畑に行きたくてしようがないんですよ(笑)。

地元のおじいちゃん達とも挨拶をきっかけに話をするようになってきたんです。自分でつくったものを自分で食べて、周りの人と仲良くして、そこには当たり前のシンプルな暮らしの営みがある。コンサルタントのときとは対極のライフスタイルです。

宮田 みんな矢澤さんみたいに「気分は最高」と思って仕事がしたいと思うんですけど、他の人と矢澤さんと、何が違うんでしょうか。

矢澤 私は自分が特別な人間だとは思いません。でも、職場環境が変わって周りを見渡してみると、人間は色々な暮らし方ができるんだなあって感じてます。住宅ローンとか子供の教育とかを考えると、どうしても会社の中でしか生きていけないと思っている人は多いような気がします。

でも、視点をちょっと変えるだけで色んな生き方ができるんだと思います。もっと柔軟な生き方が。
意志を持って行動すれば、できる。ただ、そういう気持ちを持って行動し続けられるのは、それが「好き」だから。

そんな素直な気持ちに従うことが、大切なんじゃないでしょうか。

○あとがき○
矢澤さんのつくる苗木は、他の苗木と元気さが違う。
矢澤さんは接ぎ木をした苗木を手術をしたあとの患者のように大切に扱う。周りからは「そんなに手間をかけたらコストに合わないよ」と言われるらしいが、きっと矢澤さんはコストのことなんて考えていないんだろう。
目の前の植物の欲するままに愛情を与え、世話をするだけ。だけど、近いうちに「矢澤ナーセリーの苗木は他のと違う」と評判になるに違いない。
コストを考えることが普通なのか、只懸命に良いものをつくりたいと願うことが普通なのか。

「好き」を「天職」にした人には、そういう人にしか飾れない勲章がある。
            
「きゃりあ・ぷれす」外部編集スタッフ宮田生美